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zoom RSS Nスペ「飛鳥発掘が覆す大化改新」

<<   作成日時 : 2007/02/02 23:52   >>

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大化改新に関する新説だった。
蘇我蝦夷・入鹿は、専横のかぎりをつくしたどころか、天皇家(大王家)を守る中心で、唐の侵略から飛鳥をまもるために、甘樫丘に居をかまえたという。
しかも、日本書紀に伝えられるように、甘樫丘の蘇我邸は、宮城を模したものではなく、実務的な砦だったと。
さらに、大陸の事情に詳しい蘇我氏は、百済や新羅とも交渉できる素地をもっていた。

中大兄皇子らが蘇我蝦夷・入鹿を暗殺したのは、いわば保守派のクーデターのようなもので、そのため、大化の改新のような「新政」はなく、外交では新羅とのパイプがなくなり、百済一辺倒になり、白村江の大敗を招き、それ以後「新政」がなされたと。

ざっと、こんな話。

かつては、東アジア情勢に的確に対応する必要が日本にはあったにもかかわらず、それに対応できていなかった。そこで、唐からの留学生からの情報で、対唐政策の必要性を痛感していた中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我氏を排除したというのが、大化改新の動機とされていた。

しかし、今日のNスペでは待ったく逆。
というか、Nスペでは、大化改新の動機はあまりふれられていなかった。
対外政策の目をもっていたか、いなかったのか、という点で、蘇我氏がもっている、クーデター派はもっていない、といわば通説の逆を紹介し、そして、保守派によるクーデターのようなものとしていた。

だが十分、積極的な動機はふれられていなかった。

蘇我氏についての再評価は近年著しい。
蘇我馬子にしても、いまや厩戸皇子(聖徳太子)とともに、推古朝の政治を動かした宰相として認知されており、かつての独裁者や厩戸の政治を妨害した保守派という印象はない。
大化改新についても、中大兄皇子が主導的な役割を果たしたのではなく、中臣鎌足と軽皇子(皇極天皇の弟、中大兄の叔父、後の孝徳天皇)が主導的な役割を果たし、難波に都を移し対外政策に備えるというものという意見もあある。
(遠山美都男氏の「天皇と日本の起源〜飛鳥の大王の謎を解く」参照)

もっとも、入鹿暗殺の直後、古人大兄皇子が、「韓人、鞍作を殺しつ」と謎めいた言葉を残したことから、中臣鎌足は、百済の皇子・豊璋と同一人物という珍説もあったりするぐらいだ。

大化改新については、これからますます研究が進むので、こうしたいろんな説をぜひドンドン紹介してほしいものだ。

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